午前中は熊本県山鹿市のプログラミング教育に関するEBPMのオンラインミーティング。終了後,東京へ。
昨日の夕方,東京学芸大学で学部,修士とご指導いただいた根本正義先生が亡くなったと,ゼミの先輩で絵本作家の本間千裕さんと,ゼミの同級生で小学校教員の木村太郎くんから連絡をもらった。夏に木村くんが研究室を訪ねてくれて京都で呑んで,久しぶりに根本先生に連絡とって会いにいかないとね,なんて話していたばかりだった。大学でポストを得られたことなど,直接ご報告できないままとなってしまった。
学部生時代,硬式テニス部の活動に打ち込んでいたため,他の同級生が自主ゼミでほとんど研究室が決まっているので,自分だけ全く決まっていなかった。近代文学は好きだったけど,文学で卒論を書くことが想像できず,木村くんにマンガで研究できないかと相談すると,根本先生はマンガについても書いていると紹介してもらって,根本研究室に所属することとなった。そんなわけで,根本先生との出会いがなければ,マンガの研究もしていなかっただろうし,もしかしたら教員にもなっていなかったかもしれないし,とにかく今日の自分はいない。
卒論はブラック・ジャックを題材とし,修論は作品を広げ四作品について論じた。ちょうど僕らが修士課程を修了するタイミングで根本先生が退官を迎えることもあり,とてもよくしていただいた。
当時はまだ研究室で飲酒喫煙が自由な時代だった。タバコを吸わない木村くんのことを気遣って,僕が研究室に行ってタバコを吸い出すまではタバコを吸わない根本先生。17時が近づくと,「5時前だけどもういいかな。」と言って,一番したの引き出しからいいちこの紙パックを取り出す根本先生。修士課程修了式の日には研究室にあった戦艦三笠の紙模型を,大学構内の大通りで燃やして万歳三唱する根本先生。酔っ払っても,酔っ払ってなくても,通りすがりの知らない人にでも「よっ,元気ですか」と手を挙げて声をかける根本先生。
修論の研究で,「まだ目次(プロット)ができていなくて…」と相談したら,「目次なんてもんは最後にできるんだ。書きたいことを書いて,それを並べたら目次になるんだ。そんなものは最初にできるわけがない」とご指導をいただいたことを今でも覚えている。
その後,研究分野が少し変わり,書き方も変わったけど,根本にはこの時の「書きたいことを書く」ということは,自分の主義主張を論文にする,ということで生き続けていると,根本先生のことを思い出しながら考えていた。
僕の結婚式にも島根まで来てくださって,「青い山脈」を歌ってくださり,僕の祖母が「えっと聞いた歌だわ」と喜んでいた。全く聞いたことがないのに,急に歌えと言われて適当なメロディーで変な汗を大量に書きながら歌ったこともよく覚えている。
そんなことを考えながら,同級生の石故くんも駆けつけて,四人で根本先生のご自宅へおうかがいした。とても久しぶりだったので,近くまでは行けたものの,お家が分からずウロウロしてしまった。その辺から根本先生が「よっ,ここだよ」と出てきてくれそうな気がしていた。
ご自宅で線香をあげさせていただき,娘さん夫婦にお話をうかがうことができた。体調を崩されてから,いつの間にかご自宅の電話の横には,他の方も含めて石故くんと木村くんと僕の名前と電話番号がメモされていたこと,病院に持って行っていた手帳の本間さんの連絡先に付箋が貼ってあったこと,それで今回連絡するできたことを教えていただいた。
夏に本間さんが電話した時にはいつもの調子で,「大丈夫,大丈夫。俺は大丈夫だ」と言っていたそうだが,何か感じておられたのかもしれない。そう思うと,木村くんが京都に来てくれたタイミングで連絡すればよかったと,後悔してもしょうがないが,思わざるを得ない。
先生は退官後,水墨画を習い始めていた。先生が初めて出品した時には根本先生と木村くんと見に行った。「まだ全然なんだよ」と恥ずかしそうに,でも嬉しそうに作品を紹介してくれたことを覚えている。もう10年以上前のことになる。ご自宅にはその後描き溜めた作品がたくさん残されていた。児童文学や童謡をテーマに作品を描かれ,展覧会をしたいとおっしゃられていたそうだ。しかし,コロナ禍がありコロナが落ち着いても気持ちが上がってこない様子だったと教えていただいた。それでも,階段の上り下りが辛くなっても,ご自宅の中二階にある書庫から書籍を取り出して読み,絵を描くということを続けられていたそうである。
飲み会で解散する際には,街中で万歳三唱をするのが根本スタイルだった。「見送る時は万歳三唱してくれ」などと,冗談半分で言っていた根本先生の言葉通り,本間さんの音頭で根本先生を万歳三唱でお見送りして,ご自宅を失礼した。
帰りの電車の中で,本間さんと木村くんと,残された作品を何らかの形で世に出したいねという話になった。活字にすること,世に出すことを何よりも大切にしていた根本先生の作品を,何らかの形にしていきたい。
何回も連絡するタイミングはあったが,コロナだしなということで連絡をしなかった。今,思えばコロナだからこそ連絡すべきだったのだ。年賀状や論文を送れば,一目見たら根本先生の字だと分かる味のある字で必ず返事をくださった。
「俺はパソコンを使えないんじゃない,使わないんだ」とおっしゃられ,最後まで原稿用紙に手書きされた原稿で出版社に入稿されていた。キャッシュカードも作られなかったとお話をおうかがいした。最後まで根本先生らしさを感じた一日だった。
改めて,今日の自分はこれまで出会って,関わってくださった全ての方々のおかげで成り立っていると感じた。根本先生から学んだこと礎に,これからもマンガを読むことについての研究を継続していく。それが僕にできる唯一の恩返しだと考えている。
根本先生,本当にありがとうございました。自分の主義主張をもつこと,活字にすること,世に出すして問うてもらうこと,明るくいること,楽しくいること,人を思いやること,先生から学んだことを忘れずに,精進してまいります。
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